先月、以前の同居人が引っ越すことになり、やや紆余曲折あって新しい人が七月二日からやって来た。カリフォルニア大学サンタクルーズ校で神経生物学を学んでいるという若い女性だ。ウクライナのポーランドにほど近い西部出身だそうで、高校生の時に母親とともにサンフランシスコに移り住んだそうだ。そのため毎晩のようにウクライナに関するを話を聞いている。
元同居人から月末での引っ越しを告げられたのは六月十五日は日曜日の夕方。その日、早速クレイグズリストに同居人募集の広告を投稿。またたくまに何通もの問い合わせがあった。翌月曜日には五人、火曜日には三人が我が家にやって来て部屋を見るとともに説明を聞き、また水曜日にはユタ州に暮らしているが七月の上旬にサンタクルーズに引っ越す予定という男性とスカイプで話した。そして十九日は木曜日に一旦はその内の一人に同居人になって欲しい旨、連絡。その人は翌週まで街の外に出ているということだった。一週間待ち翌木曜日の二十六日に、引っ越しのための資金調達に失敗したとの連絡。
仕方ないので、またクレイグズリストに投稿。金曜日に二人の人が来たがどちらも手ごたえがない。夜になり、翌週にサンタバーバラからサンタクルーズに来るという若い男性とスカイプで話し、またしても一旦はその人に決まった。そして、月曜日、その日来ることになっていたそいつがいつまでも来ない。確認するとどうも気が変わったらしい。まったく困った人もあるものだ。
そして、すぐにクレイグズリストへ再投稿。翌日の火曜日に三人来る。その内の一人の女性がもっとも条件が合ったため夜に同居人になって欲しい旨を電話。それがいまの同居人である。
翌日は水曜日にその女性は早速引っ越しに来た。サンフランシスコから両親が引っ越し手伝いに来て一緒だった。その時、同居人がお母さまとロシア語やポーランド語のようではあるが、どうもどちらでもないスラブ系言語を話していたのでどちらの出身か訊くとウクライナということであった。
とにかくこの時代、このベイエリア(広い意味で)では同居人を得ること自体は難しくはない。
2014年7月15日火曜日
2014年6月12日木曜日
映画"Systemfehler – Wenn Inge tanzt"
あらすじ。ギムナジウムに通うマックスはヨスカ、ファビオ、ルーカスという三人の友達とともにパンクバンド「ジシュテムフューラー」を結成している。ところが、そのバンドが発表した「インゲが踊るとき」というマックスが恋心を寄せているインゲを歌った歌を発表したところ、当のインゲが立腹してしまう。そこからいくつも騒動が発生して、終盤では晴れ舞台となるライヴにたどり着けるかが見せどころとなるというも、まあわかりやすいギムナジウム青春絵巻である。
ただし、むしろこの話のすじと設定の凡庸性こそが印象深かった。それというのも、筆者は現代ドイツの若者文化や十代の生活を描いた文芸にあまり触れたことがなかったからだ。この映画を観ると、ギムナジウムに通うドイツの十代の生活もBBCのドラマ「スキンズ」などで描かかれるような英国のカレッジ(英国においては高校という意味である)に通う十代のそれとあまり変わらないようだ。この映画では十代の若者の恋愛や音楽、また大麻やエクスタシーなどが実におおらかに肯定的に語られる。特にバンドの一員でドラム担当のルーカスがエクスタシーの脱ぎ上戸というか、エクスタシーを食ったら脱ぎたくなる体質という設定は色気を振りまきつつもコミカルな場面をなしていた。バンドの男四人アイドル然とした様は英国のボーイバンドマクフライをも思わせる。また、終盤にはバンドの四人にインゲをくわえて五人とバンドが東映の戦隊ものと同じ構成になる。この五人とも美形であって、これらの若者のやり取りを観ているだけでも眼福というものだ。
こうした現代ドイツの生活振りを伝えるような娯楽映画がもっと現れてドイツのイメージを更新してくれればいいと思った。
2013年11月30日土曜日
生殖の未来: ナイナ・パテル博士のアクシャンカ不妊治療院
インドはグジャラート州にアクシャンカ不妊治療院という代理出産で世界的に名高い医院がある。ここはナイナ・パテル博士という医師によって建てられたところで、パテル博士はこれまで二十年以上に渡って代理出産技術によって不妊カップルの子作りに協力して来たそうだ。先日、BBCによってこの代理母に取材したドキュメンタリーが作られたとのことで、記事にもなった。そして、BBCのみならずそれを受けたナショナル・ポストなどのいくつかのメディアがこの医院や代理出産を取り上げた記事を掲載。日本語でもこの医院を赤ん坊工場という批判の意見とともに紹介する記事がいくつかあった。この医院の顧客はおもに西洋人、だそうだが、日本にも仲介事務所が存在する。つまり、先進国の顧客に向けているのだろう。
BBCの記事によると、出産が成功した場合の代金は二万八千ドルとのこと。新車を買う程度代金で代理母というサービスを利用できるのだ。生殖産業の大衆化がここに実現しているのである。
また、今月にはBBCのインタヴュー番組にパテル博士が出演し、司会者のスティーブン・サッカーからなかなか手厳しい追及を受けていた。
議論の対象はいくつかある。まず、代理出産という技術、そして産業自体がいまだに論争の対象であることはさておき、この医院は労働者、つまり代理母であるインド人女性らを搾取しているのではないかとという根深い疑惑があるのである。パテル博士は勿論それを否定する。代理母らには十分な報酬を支払っているというのだ。いや、搾取どころか地元の女性を経済的に支援する活動でもあると説明するのだ。そうかしも知れない。そもそも、それが搾取だとしても、われわれの生活をささえる中国の女工がおかれた境遇りもはるかに快適な環境が代理母らに保障されていることは間違いないのではないだろうか。すなわち、これを搾取だとして非難するのははなはだとんでもない欺瞞である。なるほど、これは搾取かも知れない。しかし、そうだとしたらiPhoneもGAPの服もナイキ製品もみな資本主義という構造的暴力の産物である。そうした暴力にもとづいた文明を享受しておいてこれを批判するのはいちじるしい欺瞞であり、また傲慢だろう。
顧客はついに子供を手に入れることができる。そして労働者ら、つまり代理母(みなすでに自分の子供がいる母だそうだ)は十分な報酬を手にし、その報酬をみずからの子供への教育へと投資することができる。それのなにが悪いのだろうか。
ところで顧客の属する国よっては赤ん坊にまつわる法的な問題も発生する。特にドイツや日本などの血統主義を取っている国において、代理母の産んだ子供は法的に曖昧な状況に追い込まれ、入国などで問題が発生してしまうらしい。それも国民国家における、家族や子供という概念の定義が現状に即していないのである。いや、それどころか代理母を始めとする生殖産業はまさに国境を越えて国籍をもたないゆえに、国民国家の自明性をゆるがすのだ。それもこれも近代に発生した国民国家という機構が資本と産業構造の要請に応じて生成し組織されたものだからに他ならない。
代理母という仕事は売春にもたとえられる。つまり、どちらも女のからだの機能をつかい、貧困などの経済的必要性が強いた結果だというわけだ。そうかも知れない。一方で女が自分のからだをいかにつかうか自分で決める自由を禁じていいわけではないだろう。
資本主義は人間の活動または生活を細分化し、世界全体を巻き込みつつ分業へと向ける意志である。その力はあらゆる人間生活におよぶ。少なくとも生殖産業は今後も発展する一方であり、それが退行すること決してないだろう。ナイナ・パテル博士の事業は歴史の方向を照らしているのだ。
BBCの記事によると、出産が成功した場合の代金は二万八千ドルとのこと。新車を買う程度代金で代理母というサービスを利用できるのだ。生殖産業の大衆化がここに実現しているのである。
また、今月にはBBCのインタヴュー番組にパテル博士が出演し、司会者のスティーブン・サッカーからなかなか手厳しい追及を受けていた。
議論の対象はいくつかある。まず、代理出産という技術、そして産業自体がいまだに論争の対象であることはさておき、この医院は労働者、つまり代理母であるインド人女性らを搾取しているのではないかとという根深い疑惑があるのである。パテル博士は勿論それを否定する。代理母らには十分な報酬を支払っているというのだ。いや、搾取どころか地元の女性を経済的に支援する活動でもあると説明するのだ。そうかしも知れない。そもそも、それが搾取だとしても、われわれの生活をささえる中国の女工がおかれた境遇りもはるかに快適な環境が代理母らに保障されていることは間違いないのではないだろうか。すなわち、これを搾取だとして非難するのははなはだとんでもない欺瞞である。なるほど、これは搾取かも知れない。しかし、そうだとしたらiPhoneもGAPの服もナイキ製品もみな資本主義という構造的暴力の産物である。そうした暴力にもとづいた文明を享受しておいてこれを批判するのはいちじるしい欺瞞であり、また傲慢だろう。
顧客はついに子供を手に入れることができる。そして労働者ら、つまり代理母(みなすでに自分の子供がいる母だそうだ)は十分な報酬を手にし、その報酬をみずからの子供への教育へと投資することができる。それのなにが悪いのだろうか。
ところで顧客の属する国よっては赤ん坊にまつわる法的な問題も発生する。特にドイツや日本などの血統主義を取っている国において、代理母の産んだ子供は法的に曖昧な状況に追い込まれ、入国などで問題が発生してしまうらしい。それも国民国家における、家族や子供という概念の定義が現状に即していないのである。いや、それどころか代理母を始めとする生殖産業はまさに国境を越えて国籍をもたないゆえに、国民国家の自明性をゆるがすのだ。それもこれも近代に発生した国民国家という機構が資本と産業構造の要請に応じて生成し組織されたものだからに他ならない。
代理母という仕事は売春にもたとえられる。つまり、どちらも女のからだの機能をつかい、貧困などの経済的必要性が強いた結果だというわけだ。そうかも知れない。一方で女が自分のからだをいかにつかうか自分で決める自由を禁じていいわけではないだろう。
資本主義は人間の活動または生活を細分化し、世界全体を巻き込みつつ分業へと向ける意志である。その力はあらゆる人間生活におよぶ。少なくとも生殖産業は今後も発展する一方であり、それが退行すること決してないだろう。ナイナ・パテル博士の事業は歴史の方向を照らしているのだ。
2013年10月26日土曜日
映画「ゼロ・グラビティ」 新しい産業形態のもとの映画
複雑な筋はなく、登場人物もただ二人。宇宙ステーションで事故が発生。サンドラ・ブロック演ずるライアン・ストーン医師とジョージ・クルーニー演ずるマット・コワルスキ隊員の二人の宇宙飛行士のみが生き残り、途中でコワルスキの自己犠牲にも支えられてストーンが地球への生還を果たすというそれだけの話である。やはり、見どころはその圧巻の3D映像。それというのも、全編が無重力の宇宙空間を舞台としており、映画に終始浮遊感が漂っている。さらにところどころでもの飛び散る描写があり、破片などが客席に飛び込んでくるのだ。「アヴァター」冒頭の無重力表現とか、パルクールを彷彿とするアクション描写を全面に押し出したような映画。観るエクストリームスポーツとでも呼べる作品である。ちなみに最後、ストーンは最後、中国の無人宇宙ステーションにたどり着き、それを使って地上への帰還を果たす。このごろの中国の宇宙開発という現実はあるにせよ、多分に中国市場を意識しているのだろう。
似た作品にダニー・ボイル監督でジェームズ・フランコ主演の「127時間」がある。双方とも絶望的状況からの脱出を丹念に描いた映画であり、またエクストリーム・スポーツのような意識への働きかけを行う。おそらく、今後ますますこのように特に複雑な筋はない観るエクストリームスポーツのような作品は増える一方ではないだろうか。筆者は勝敗がなく、ただ意識の快楽を得るためのエクストリーム・スポーツの昨今の隆盛が現代の産業形態と内的な関係を持っているのではないかと直観している。そうするとエクストリームスポーツ的な映画もまたそうした背景に根ざしていることになろう。つまり、こうした映画こそがアルビン・トフラーのいう第三の波のもとにおける芸術の形式のひとつであり、産業に担い手であるジャック・アタリいうところのノマドの意識を反映をしているのだ。
ところで町山智浩は十月二十二日のTBSラジオ「たまむすび」のコラムにて、別の生存帰還もの映画「キャプテン・フィリップス」を語る際に、その前週に紹介した「ゼロ・グラビティ」にも言及し、こうした生存のための苦闘を描く映画が人気となる理由として、昨今の合衆国におけるますます進む生活苦を挙げていた。
いずれにせよ、世情を反映した映画というのは間違いないと思う。
2013年10月20日日曜日
フォーサムストリート祭
九月二十九日は日曜日、サンフランシスコはフォーサムストリートでひらかれたフォーサムストリート祭に行って来た。フォーサムストリートは革やゴム、緊縛などの愛好家らが集まる通りであり、そうした人々に向けたバーやクラブ、洋品店やハッテン場などでにぎわっている。サンフランシスコのゲイストリートというとカストロであるが、玄人向けのフォーサムは一般向けのカストロとは一線を画す。フォーサムストリート祭はそこでひらかれる年に一度の祭典である。
前日、二十八は土曜日にサンフランシスコ入り。夕方の十七過ぎから十九時ごろにかけて、会場のフォーサムストリートを歩いてみた。実は筆者は二〇〇九年の十一月にサンフランシスコに滞在した際も、ホストの案内でここに来たことがある。土曜の夕方であっても静かなものだ。ところがフォーサムストリートと交差する九番通りと十番通りの間の区画のあたりにて、Tシャツに短パンという格好の二人連れの男とすれ違った。その内の一人が俳優のラッセル・トーヴィーだと気付いたのはまさにすれ違いざまであった。思いがけぬ遭遇にしばし呆然となってしまった。トーヴィーはジョナサン・グロフ主演の新しいドラマの撮影のためにサンフランシスコに滞在しているらしい。
翌日、一時過ぎに会場へと到着。今回はバークレーから地下鉄で最寄の駅である市庁舎駅までむかったのだが、目的駅が近づくにつれ、列車の中にみるからにそれらしい人が増えてくる。これも祭の盛り上がりを明かす道具立てのひとつというものだろう。
会場への入場は寄付制であり、今回は最低十ドルから。ただし、寄付なので払わなくてもいいのかも知れない。会場となっている区画へ入るやそこは街角に出現した変態の遊園地。遊園地とあっては見世物あり、体験ブースあり、マスコットキャラありの素晴らしいにぎわい。とりあえず、前に進むと、道に組まれた舞台にてキンク・ドット・コムというエロサイトによるSMショーを演っていた。その模様などはこの記事で写真をを見られる。やはり、縛りといい、女王の責めといい、奴隷の耐えてあえぐ姿といい、一々堂々としていて見事なものだ。そして背中を打つバラ鞭や乳首を責める電流の出る棒などで奴隷を痛めつける女王様方の手つきにはどこか愛と思いやりを感じられる。
また、その舞台の裏には南方カリフォルニア緊縛(So Cal Shibari)という縄師の集団よる縛りの体験コーナーもあった。その中には紫の鬘を被りセーラー服を着た日本人と思しき若い女の縄師もいた。こうした人にはますます活躍して欲しいものだ。ちなみに日本語の縛りという語そのまま英語には"Shibari"として定着している。
会場内には他にも尻叩きの体験ブースや、変わりどころではお馬さんプレイや犬プレイの展示ブースが並ぶ。さらにはSMなど特に関係なく財布やベルトなどの革製品を売っているブースもある。みな、見ているだけで楽しいものである。音楽の舞台ではゲストの一組としてハーキュリーズ・アンド・ラブ・アフェアが来ていたのでしばし聴き行った。
七時ごろいよいよおひらきとなり、会場が撤収していく。そのさなか、会場の一角に位置し、二〇〇九年に筆者も一度来たことがある緊縛をコンセプトとしたカフェ、ウィッキド・グラウンズを訪ねてみた。そこもあえなく閉まるところだったが、二〇〇九年に会った店員がいたので挨拶してみた。また折に触れ訪ねてみたい気持ちのよい感じ店だ。
会場をあとにし、バスの時間までマーチャント通りのコーヒー・アンド・ビーンズでしばし休むことにした。すると、店の中には恋人か夫同士と思しい革ズボンをまとった三十代くらいの男二人がいる。間違いなく祭から帰って休んでいるところなのだろう。そうした光景を目にするとつくづく祭の余韻を感じたものであった。
ところでこのフォーサムストリート祭はいまだ日本語での情報に乏しいらしく、ブログ記事などもこの記事くらい見つけられなかった。せっかく日本が世界に誇る縛りの文化を紹介する場所でもあることだし、これからどんどん日本でも知られて欲しいものである。
前日、二十八は土曜日にサンフランシスコ入り。夕方の十七過ぎから十九時ごろにかけて、会場のフォーサムストリートを歩いてみた。実は筆者は二〇〇九年の十一月にサンフランシスコに滞在した際も、ホストの案内でここに来たことがある。土曜の夕方であっても静かなものだ。ところがフォーサムストリートと交差する九番通りと十番通りの間の区画のあたりにて、Tシャツに短パンという格好の二人連れの男とすれ違った。その内の一人が俳優のラッセル・トーヴィーだと気付いたのはまさにすれ違いざまであった。思いがけぬ遭遇にしばし呆然となってしまった。トーヴィーはジョナサン・グロフ主演の新しいドラマの撮影のためにサンフランシスコに滞在しているらしい。
翌日、一時過ぎに会場へと到着。今回はバークレーから地下鉄で最寄の駅である市庁舎駅までむかったのだが、目的駅が近づくにつれ、列車の中にみるからにそれらしい人が増えてくる。これも祭の盛り上がりを明かす道具立てのひとつというものだろう。
会場への入場は寄付制であり、今回は最低十ドルから。ただし、寄付なので払わなくてもいいのかも知れない。会場となっている区画へ入るやそこは街角に出現した変態の遊園地。遊園地とあっては見世物あり、体験ブースあり、マスコットキャラありの素晴らしいにぎわい。とりあえず、前に進むと、道に組まれた舞台にてキンク・ドット・コムというエロサイトによるSMショーを演っていた。その模様などはこの記事で写真をを見られる。やはり、縛りといい、女王の責めといい、奴隷の耐えてあえぐ姿といい、一々堂々としていて見事なものだ。そして背中を打つバラ鞭や乳首を責める電流の出る棒などで奴隷を痛めつける女王様方の手つきにはどこか愛と思いやりを感じられる。
また、その舞台の裏には南方カリフォルニア緊縛(So Cal Shibari)という縄師の集団よる縛りの体験コーナーもあった。その中には紫の鬘を被りセーラー服を着た日本人と思しき若い女の縄師もいた。こうした人にはますます活躍して欲しいものだ。ちなみに日本語の縛りという語そのまま英語には"Shibari"として定着している。
会場内には他にも尻叩きの体験ブースや、変わりどころではお馬さんプレイや犬プレイの展示ブースが並ぶ。さらにはSMなど特に関係なく財布やベルトなどの革製品を売っているブースもある。みな、見ているだけで楽しいものである。音楽の舞台ではゲストの一組としてハーキュリーズ・アンド・ラブ・アフェアが来ていたのでしばし聴き行った。
七時ごろいよいよおひらきとなり、会場が撤収していく。そのさなか、会場の一角に位置し、二〇〇九年に筆者も一度来たことがある緊縛をコンセプトとしたカフェ、ウィッキド・グラウンズを訪ねてみた。そこもあえなく閉まるところだったが、二〇〇九年に会った店員がいたので挨拶してみた。また折に触れ訪ねてみたい気持ちのよい感じ店だ。
会場をあとにし、バスの時間までマーチャント通りのコーヒー・アンド・ビーンズでしばし休むことにした。すると、店の中には恋人か夫同士と思しい革ズボンをまとった三十代くらいの男二人がいる。間違いなく祭から帰って休んでいるところなのだろう。そうした光景を目にするとつくづく祭の余韻を感じたものであった。
ところでこのフォーサムストリート祭はいまだ日本語での情報に乏しいらしく、ブログ記事などもこの記事くらい見つけられなかった。せっかく日本が世界に誇る縛りの文化を紹介する場所でもあることだし、これからどんどん日本でも知られて欲しいものである。
2013年8月26日月曜日
チャールズ・アイゼンシュタインによる贈与経済についての講演会
八月二十四日、チャールズ・アイゼンシュタインという思想家による近くの美術館を会場としてひらかれた講演会に行って来た。
贈与経済という思想は先日も紹介したバーニングマンの原則のひとつであり、また昨今ではSF作家でシリコンヴァレーとも縁のふかい評論家のコリイ・ドクトロウなんかが盛んに提唱している。ドクトロウの場合は無料経済という言葉を使っているが。つまり六十年代に端を発するカリフォルニア的思想の一環なわけだ。
このチャールズ・アイゼンシュタインという人は若いころに台湾へ渡り、翻訳家として活動していたこともあるということで、東洋思想からも影響を受け、ヨーガに関する著書もあるようである。いかにもニューエイジの流れに位置づけられる思想家のようだ。二〇一一年に「聖なる経済」という贈与経済に関する本を出している。探してみれば、日本語でも有志がオンラインで翻訳を公開していた。
今回の講演会はおもに二部にわかれ、前半はアイゼンシュタインが登壇して贈与経済の概要などを語り、後半ではサンタクルーズの地元の非営利団体の活動家らが登場してそれぞれの活動などを説明するという内容。それら参加していた非営利団体は、まず地域を考えようや時間銀行、キャンプヒル共同体カリフォルニアなど。 キャンプヒルとは障害者と共に生きるための共同体を立ち上げる活動体だそうだ。その代表者の人はルドルフ・シュタイナーから影響を受けているらしく、直接人智学的な用語は使わないまでも、言葉の端々にその様子がうかがえるのが面白かった。会場は満杯に近く、聴衆は百人以上つどっていたであろうか。
ただ、やはり贈与経済のあり方について楽天的過ぎる嫌いがあるのが否めない。アイゼンシュタインは講演で「贈与経済は人々をつなげ、貨幣経済は人々を遠く切り離す」と語っていたが、それこそが貨幣経済の魅力であり強さではないのか。エンゲルスが貨幣を農村共同体を溶かす酸になぞらえていたことを思い出す。
後半では聴衆からいくつもの質問が飛び交い、そのひとつに贈与経済下における芸術の収益という実に現在的な問題があった。つまり、貨幣を否定したら芸術に収益が出ず、その発展が阻まれるのではないか。「ミケランジェロはどうやってシスティナ礼拝堂に絵を描くか」がその時に質問者がしめした例えである。アイゼンシュタインはそれに対し、自分は貨幣経済を全面的に否定するものはではないと語りつつ、今後の芸術への集団財源庇護( Cloud source patronage)の可能性に言及した。クラウドファンディングとも呼ばれる形を想定しているのか。月並みではあるが、妥当なところだろう。
ところで筆者もいわゆる貨幣経済に代わる、非貨幣経済がますます台頭してくるとは思うが、そうなるのも資本主義の妙なる適応と弁証法的な変わり身の結果だろう。
贈与経済という思想は先日も紹介したバーニングマンの原則のひとつであり、また昨今ではSF作家でシリコンヴァレーとも縁のふかい評論家のコリイ・ドクトロウなんかが盛んに提唱している。ドクトロウの場合は無料経済という言葉を使っているが。つまり六十年代に端を発するカリフォルニア的思想の一環なわけだ。
このチャールズ・アイゼンシュタインという人は若いころに台湾へ渡り、翻訳家として活動していたこともあるということで、東洋思想からも影響を受け、ヨーガに関する著書もあるようである。いかにもニューエイジの流れに位置づけられる思想家のようだ。二〇一一年に「聖なる経済」という贈与経済に関する本を出している。探してみれば、日本語でも有志がオンラインで翻訳を公開していた。
今回の講演会はおもに二部にわかれ、前半はアイゼンシュタインが登壇して贈与経済の概要などを語り、後半ではサンタクルーズの地元の非営利団体の活動家らが登場してそれぞれの活動などを説明するという内容。それら参加していた非営利団体は、まず地域を考えようや時間銀行、キャンプヒル共同体カリフォルニアなど。 キャンプヒルとは障害者と共に生きるための共同体を立ち上げる活動体だそうだ。その代表者の人はルドルフ・シュタイナーから影響を受けているらしく、直接人智学的な用語は使わないまでも、言葉の端々にその様子がうかがえるのが面白かった。会場は満杯に近く、聴衆は百人以上つどっていたであろうか。
ただ、やはり贈与経済のあり方について楽天的過ぎる嫌いがあるのが否めない。アイゼンシュタインは講演で「贈与経済は人々をつなげ、貨幣経済は人々を遠く切り離す」と語っていたが、それこそが貨幣経済の魅力であり強さではないのか。エンゲルスが貨幣を農村共同体を溶かす酸になぞらえていたことを思い出す。
後半では聴衆からいくつもの質問が飛び交い、そのひとつに贈与経済下における芸術の収益という実に現在的な問題があった。つまり、貨幣を否定したら芸術に収益が出ず、その発展が阻まれるのではないか。「ミケランジェロはどうやってシスティナ礼拝堂に絵を描くか」がその時に質問者がしめした例えである。アイゼンシュタインはそれに対し、自分は貨幣経済を全面的に否定するものはではないと語りつつ、今後の芸術への集団財源庇護( Cloud source patronage)の可能性に言及した。クラウドファンディングとも呼ばれる形を想定しているのか。月並みではあるが、妥当なところだろう。
ところで筆者もいわゆる貨幣経済に代わる、非貨幣経済がますます台頭してくるとは思うが、そうなるのも資本主義の妙なる適応と弁証法的な変わり身の結果だろう。
2013年7月29日月曜日
映画"Spark: A Burning Man Story"
| 上映会がひらかれた劇場にあった展示物。 |
七月十日に映画「スパーク: あるバーニングマンの物語」(邦題仮)の上映会に行って来た。この映画はネヴァダ州の砂漠で毎年ひらかれているあの有名なバーニングマンフェスティバルの歴史や二〇一二年のバーニングマンの参加者ら数組を追ったドキュメンタリーだ。八十年代にサンフランシスコの浜でやっていた小規模なお祭がやがてネヴァダのブラックロック砂漠へ移り、現在のような巨大なものになる過程を当時の映像や写真をまじえながら創設者らのインタヴューで語っていく前半と、二〇一二年の参加者である芸術家らの出展作品の制作を追いつつ、バーニングマンの開催の様子を記録した後半に分かれている。ちなみに東京都下出身の若者に声をかけて、一緒に一緒に観に行くことになった。
まず、バーニングマンの運営スタッフらがいかにも真面目そうな人々であったのが印象的だった。たしかにあれほどの規模の祭をひらくには厳正と能力が必要だろう。あと、ここは強調しておきたいが、運営スタッフには女が多い。その半数以上が女性という印象だ。
九十年代の初期バーニングマンの映像もふんだんに使われていて、それも面白かった。特に九六年の回で発生したという騒乱の様子が印象深い。その事件はのちの運営のあり方にも影を落としているようだ。
参加者のなかでも、ウォール街を燃やせ、というプロジェクトを実行したオークランド在住の芸術家オットー・ヴォン・デンジャーとその工房の面子はコミカルな魅力をはなっていた。このプロジェクトはバーニングマンに悪の象徴としてのウォール街を模したハリボテを展示し、最終的に燃やすといういかにもな作品であり、ウォール街占拠の運動のながれを受けたものらしい。全編にわたってバーニングマンの素晴らしさを紹介してはいるが、しかしバーニングマン関係の映像の見るたびにその参加者が白人ばかりだというのが目につく。それについては課題とすべきではないか。
また、上映後には監督への質疑応答の時間と、上映会の来場者らの衣装を競うコンテストも設けられていた。ところでこの映画は八月からTunesなどで配信を開始。十月にはDVDも出るとのこと。
帰りがけ、同行した若者から「あれがヒッピーってやつですか」と訊かれた。ヒッピー文化のながれは受けているが、九〇年代のレイヴカルチャーを経由しているのではないかと答えた。そもそも、六〇年代的ヒッピーカルチャーと九〇年代の連続性も気になるところではある。バーニングマンの創設者らや最初期の参加者には、それこそ確実にウッドストック音楽祭の経験者もいるとおもうのだが。そこに六〇年代のベイエリア的ヒッピーカルチャーとシリコンヴァレー的IT産業をの文化的、歴史的連続性をみいだす鍵もあるのではないか。
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