インドはグジャラート州にアクシャンカ不妊治療院という代理出産で世界的に名高い医院がある。ここはナイナ・パテル博士という医師によって建てられたところで、パテル博士はこれまで二十年以上に渡って代理出産技術によって不妊カップルの子作りに協力して来たそうだ。先日、BBCによってこの代理母に取材したドキュメンタリーが作られたとのことで、記事にもなった。そして、BBCのみならずそれを受けたナショナル・ポストなどのいくつかのメディアがこの医院や代理出産を取り上げた記事を掲載。日本語でもこの医院を赤ん坊工場という批判の意見とともに紹介する記事がいくつかあった。この医院の顧客はおもに西洋人、だそうだが、日本にも仲介事務所が存在する。つまり、先進国の顧客に向けているのだろう。
BBCの記事によると、出産が成功した場合の代金は二万八千ドルとのこと。新車を買う程度代金で代理母というサービスを利用できるのだ。生殖産業の大衆化がここに実現しているのである。
また、今月にはBBCのインタヴュー番組にパテル博士が出演し、司会者のスティーブン・サッカーからなかなか手厳しい追及を受けていた。
議論の対象はいくつかある。まず、代理出産という技術、そして産業自体がいまだに論争の対象であることはさておき、この医院は労働者、つまり代理母であるインド人女性らを搾取しているのではないかとという根深い疑惑があるのである。パテル博士は勿論それを否定する。代理母らには十分な報酬を支払っているというのだ。いや、搾取どころか地元の女性を経済的に支援する活動でもあると説明するのだ。そうかしも知れない。そもそも、それが搾取だとしても、われわれの生活をささえる中国の女工がおかれた境遇りもはるかに快適な環境が代理母らに保障されていることは間違いないのではないだろうか。すなわち、これを搾取だとして非難するのははなはだとんでもない欺瞞である。なるほど、これは搾取かも知れない。しかし、そうだとしたらiPhoneもGAPの服もナイキ製品もみな資本主義という構造的暴力の産物である。そうした暴力にもとづいた文明を享受しておいてこれを批判するのはいちじるしい欺瞞であり、また傲慢だろう。
顧客はついに子供を手に入れることができる。そして労働者ら、つまり代理母(みなすでに自分の子供がいる母だそうだ)は十分な報酬を手にし、その報酬をみずからの子供への教育へと投資することができる。それのなにが悪いのだろうか。
ところで顧客の属する国よっては赤ん坊にまつわる法的な問題も発生する。特にドイツや日本などの血統主義を取っている国において、代理母の産んだ子供は法的に曖昧な状況に追い込まれ、入国などで問題が発生してしまうらしい。それも国民国家における、家族や子供という概念の定義が現状に即していないのである。いや、それどころか代理母を始めとする生殖産業はまさに国境を越えて国籍をもたないゆえに、国民国家の自明性をゆるがすのだ。それもこれも近代に発生した国民国家という機構が資本と産業構造の要請に応じて生成し組織されたものだからに他ならない。
代理母という仕事は売春にもたとえられる。つまり、どちらも女のからだの機能をつかい、貧困などの経済的必要性が強いた結果だというわけだ。そうかも知れない。一方で女が自分のからだをいかにつかうか自分で決める自由を禁じていいわけではないだろう。
資本主義は人間の活動または生活を細分化し、世界全体を巻き込みつつ分業へと向ける意志である。その力はあらゆる人間生活におよぶ。少なくとも生殖産業は今後も発展する一方であり、それが退行すること決してないだろう。ナイナ・パテル博士の事業は歴史の方向を照らしているのだ。