2013年4月21日日曜日

産業の推移①

 ごく基本的な話をたしかめたい。 

 十八世紀末にイギリスで始まった産業革命は西ヨーロッパの各国を巻き込み、十九世紀にはアメリカ合衆国や日本にも到達した。この産業革命の時代にわれわれの社会の制度、生活様式、意識のあり方などが確立したのであった。未来学の泰斗アルビン・トフラーのいう、先史時代における農業の発生という〈第一の波〉に続く、これが〈第二波〉である。大英帝国をはじめとする工業国では工場を整備して飛躍的に生産性が高まった。また、おもに非西欧の植民地は産業のために資源を提供することになった。近代産業とそれがよって立つ資本主義が必然的に帝国主義をまねく所以である。
 この前近代的社会から近代社会への移行はあらゆる階級を通じて人々の意識や生活に多大な苦悩をもたらし、また世代間の断絶をひらく。これによって芸術がうまれる。近代文学の誕生である。例えば、産業後進国であったロシアはこうした近代化移行期の危機をすばらしく表現した普遍的な文学を生みだした。これがロシア文学である。ひとつ例を挙げると、チェーホフの戯曲「桜の園」は不動産の推移とある階級の解体と別の階級の勃興をめぐる物語である。
 
 現在では、ご存じの通り、世界の産業の中心地は中国である。産業化した国は、まず手工業が
興り、続いて重工業へ主軸が移り、そして賃金の上昇をともないつつ第三次産業つまりサービス業や金融や観光へと動いていく。この過程で当然、労働者という資源を作るための教育のあり方も変わる。そうすると、人々の意識も変わり、これまた世代間の断絶がひらき、ときにはまた新しい文芸が花開くことになる。中国でも段々と海岸部から賃金があがり、工場が内陸部へと移動しているらしい。
おそらく、これが順調にすすめば、工場はますます西に進むだろう。現在、すでにビルマは工業化しつつあるらしい。インドは近代化移行期の真っ最中である。
 さて、この工場の西進が順調にすすめば東南アジア、南アジアも賃金が上がり、工場はやがてアフリカに到達する。現在すでにナイジェリア、エチオピアなどその他各国は工業化の兆しがみえるようだ。おそらく、アフリカ諸国が全面的に工業化したときにはいま人口爆発ももはや問題ではなくなる。ご存じのとおり、社会が発達すると必然的に少子化が起こるからである。この過程は今世紀中には確立するとおもわれる。

2013年4月14日日曜日

十世知るべき也

 「論語」の巻第一為政第二の三十二にこんな問答がある。孔子の弟子の子張が十世代先のことまで知ることができるかと孔子に問うたところ、孔子はこう答えた。殷では前の王朝である夏の制度や文化を受け継ぎ、なにかを除いたりまたは加えたりしたことがわかる。その次の周もまた殷から受け継いだものに対し同じようにした。その方向性をたどっていけば十世代どころか百世代先のことでもわかる。なんと孔子は現代でいう〈外挿法〉的な発想をすでに持っていたのだ。
 このブログの題名は畏れ多くもその「論語」の一節からいただくことにした。このブログで過去の歴史と現代世界の諸事象を紹介しつつ分析し、その方向を外挿した結果としての未来像を語っていきたい。

 ただし、筆者はかねてから日本語で流通している未来像に決して満足してない。それというのも、そこに重大な手落ちがみられるからである。つまり、人はなかなか現在の思考の枠組みから自由でいられないため、未来を構想する際、結局はたんなる技術の進展にのみ注意をむけて、社会全体の総合的な変化を見逃してしまいがちなのである。たとえば、現在でも所詮はとうてい普遍的ではない異性愛的家父長制にもとづいた核家族がどうしてこの先も相変わらず存続するとかんがえるのか。国民国家共同体が、民族の観念が、ずっと支配的でありえるのか。
 このブログでは特にそうした意識と社会や共同体の大規模な変化といった問題群に焦点をあてて未来像をかたっていくつもりである。具体的な話題としては、個人の意識、さまざまな段階の共同体、〈性〉、芸術、生殖、都市や交通や通信、農業および食料生産、メディアや教育など。

あと、日常的な話題や個人的経験なんかも折にふれて紹介したい。