2015年8月19日水曜日

カリードについて

  この夏の筆者の家にはよく人が泊りに来る。八月十日月曜日にはカリードという奴がやって来た。こいつはその朝に連絡を寄こし、午後に到着することになった。午後、カリードが着いた。顔立ちはやや厚ぼったい印象があるも、眉が太く目鼻立ちの整った男前である。聞くとその朝はサンフランシスコでサーフィンをしており、このサンタクルーズでも暇を見て波乗りに興じたいとのこと。話し方は早口で気さく。端々に俗語が挟まれる。リベラルでありつつ、ドラマ「シリコン・ヴァレー」で知られるコメディアンのT.J.ミラーのような心地よい悪辣さも感じる。まさしく今どきの批判性のある知的で話のわかる若い者だ。

 以下は本人から聞いた話とそいつSNSページの内容を統合した情報である。このカリード・アルジャナールは一九九一年生まれ。ユタ州ソルトレイクシティ出身。両親はクウェート出身で八十年代に合衆国に渡って来たそうだ。先日、ユタ州の地元の大学を卒業し、現在は旅行中でスタンフォード大学に通う妹を訪ねがてら、北カリフォルニアからロサンゼルスへと南下しているとのこと。大学では医用工学を学んだ。ちなみに、筆者へ日本で就職できないかと訊いて来たので、筆者は以前京都で医療機器会社に勤めるアメリカ人と会って話した経験を語り、就職して暮らすとすれば京都などいいのではないかとすすめておいた。

 また、高校時代から大学時代にかけてはサッカーに打ち込み、一時はプロ選手も目指していたらしい(これはSNSで見た情報)。それに高校時代はトランスDJもやっていたことがあり、パーティで何度も皿を回していたそうだ。(これは二人でダウンタウンのスーパーに買い物に行く時に、音楽はなにを聴くか問われ、アーミン・ヴァン・ビューレンなどのダッチトランスなどと答えると話してくれた)。ちなみにカリードが以前作ったというトランスの曲を二曲聴かせてもらったが、ありきたりなティエストという感じで、あがることはあがるが、ちょっと独創性に乏しかった。本人もそれはわかっているようで、パーティでかけるにあたってはそれが妥当だろうとのこと。筆者も同意する。
 それに、大学では友愛会に所属していたそうだ。実は筆者が友愛会出の者に会ったのはこれが初めてのはずだ。
 バーニングマンに行ってみたくないかと訊いてみたところ、案の定、出来れば三年以内に参加してみたいとの返事。

 夜、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のキャンパス内ある知る人ぞ知る学生の居住地であるトレイラーズをともに訪ねることにした。行きの車中でカリフォルニア大学サンタクルーズ校の二大伝統である420ディの集会ファーストレインについて話した。カリードは特に後者の話を面白がり、その後の帰りの車中では自分もそこにいたらまちがいなく参加しただろうとかたった。トレイラーズパークに着いた。しばらく共同部屋に過ごして住人らと語り合い。カリードの提案でキャンパスを散歩することにした。夏休み中のキャンパスはしずまりかえっている。歩きながらカリードがユタ州やそこの大学の文化について話してくれた。なんとユタ州の大学には酒を飲まない方針をとっている友愛会さえあるそうだ。変な話だ。また、ユタ州の保守性に愚痴をこぼしつつ、ソルトレイクシティは高気圧の日にスモッグが発生することも教えてくれた。

そしてわれわれは帰宅し、翌日にカリードは旅立って行った。若いアメリカの姿だった。


2015年7月3日金曜日

六月は第三週末の抵抗文化的な催し

   二〇一五年の六月は第三週の金曜日と土曜日に二日連続で抵抗文化的な催しに行った。金曜日はサンタクルーズ美術歴史博物館でひらかれたグレイトフル・デッドのジェリー・ガーシア展関連企画の抵抗文化祭。土曜日はサンロレンゾ公園でひらかれた夏至を祝う祭典であった。


金曜日、サンタクルーズ美術歴史博物館には午後五時頃に到着。三十分ほど過ごしたであろうか。来ていた人は年配の方が多かった。やはり六十年代と七十年代の現場に居合わせた人々なのであろう。尊いものだ。


 土曜日、夏至祭には知り合いがひらいた催しということもあって足を運んだ。来ている人は四十人くらい小規模な会だった。ただし、無料でヴィーガン料理が出て音楽の演奏もあった。最後にメキシコの先住民のシャーマンの方が出て、東西南北と太陽と天と大地の神々に祈るという儀式があった。その際、西方の神を祖父なる神と呼んだのだが、父でも母でもない祖父なる神という神格のあり方はなかなかいいと思った。





2015年1月17日土曜日

サンフランシスコ市庁舎前でひらかれたシャルリ・エブド襲撃事件追悼抗議集会に行った一日

 二〇一五年一月一一日は日曜日、シャルリ・エブド襲撃事件を追悼抗議するためにサンフランシスコ市庁舎前でひらかれた集会へ行って来た。集会自体にいたのは一時間ほどであったが、その一日は筆者の生活を通じて二〇一五年始めの世界情勢や文化を一日をよく表す一例となると思う。

 五時ごろには起きて、朝食を取りながらBBCのドラマ「ブロードチャーチ」の第七話と最終話を観る。合間にBBC国際で中継されていたパリの大規模デモの様子も伺った。

 九時前にサンタクルーズにある協同住宅のひとつで、おもにアナーキストが暮らし、サンタクルーズの活動界隈の集会所として使われることもあるザミ協同住宅に向かった。ザミ協同住宅に暮らす友人がその日バークリーでソードファイト、つまり中世の騎士の戦争や闘いに擬した遊びに行くこというので、筆者も途中までその車に乗せてもらうことになっていたのだ。九時にザミ協同住宅に着き、一時間ほどザミで待った。その間、友人マット・ウォルツとフランスとアメリカの政治的風土の違いなどを話した。マット・ウォルツの友人が運転する車が来た。そのバンにはご一家とくわえて二人、計六名の人がすでに乗っている。道中、やはりソードファイトに行くせいか、みなは「指輪物語」の歴史的背景の話などを和気藹々と語っている。一時間程してバークリーへ到着し、地下鉄アシュビー駅で降ろしてもらう。

 地下鉄に乗り、サンフランシスコのダウンタウンへ向かい、パウエル駅で降りる。中華街で鶏肉の炒麺を昼食にいただいた。 
マーケット通りへ歩くと、中華街の龍門前にあるフランス風のカフェ、カフェ・ドゥ・ラ・プレスにの「私はシャルリ」の標語が貼り出してあった。この店には思いがけずあとで入ることになる。

 集会は十四時に開始とのことだったので、それまでマーケット通りのコーヒービーン&ティーリーフで待つことにする。ところで以前ここに来た時にも感じたが、心なしかロシア語話者が多い気がした。実際、サンフランシスコには歴史深きロシア人コミュニティがあるのだ。カフェで本など読みながら待つ間に集会に誘ってくれた友人からメールが届く。もうすぐダウンタウンに着くというので、合流することになった。スイスはヴァレー出身の若者である。フランス人ではないが、フランス語話者ということもあってか、今回のシャルル・エブド襲撃事件を憂慮したらしい。そいつが来た。市庁舎前へ向かう。途中で仏教僧を装った物乞いから平安は祈られつつ半ば強引に寄付を求められるも、同行のヴァレー人が「平和はただであるべし」と一喝し、ことなきを得る。特殊な物乞いというのもなんとなくパリを思い出させた。

 市庁舎前に来た。すでに黒山の人だかりである。二時をしばらく過ぎて、まず黙祷。続いて事件の犠牲者の名前が読み上げられ、「ラ・マルセイエーズ」を歌う。同行していた友人のフレデリック・レーは近くに立っていた人と話し始め、表現の自由を語っている。しばらくしてレーの提案に従い名残惜しみながらもその場を去って食事に行くことにする。

  中華街を目指して東へ歩く。途中、ちょっと迷いつつグレイス大聖堂にも寄る。この大聖堂の壁画は諸宗教の融和を表しているため、今回の事件との不思議なつながりを感じた。

 中華街へ着いた。麺の専門店でワンタンを食べる。レーがその時現金をあまり持っていないというので、あとで飲み物で代えるということで、その場を筆者が奢った。レーの提案により、龍門前のカフェ・ドゥ・ラ・プレスへ行くことにする。途中、胡弓を弾いている人がおり、レーが楽器の名を気にしていたので、あれはペルシアの弓というのだと教えた。

 カフェ・ドゥ・ラ・プレスに着いた。席に座り、テレビへ目をやると早速さっきの集会の模様がパリのデモとともに報道されている。その時たまたまヨーロッパ史に関する総合的な本を持ち歩いていたので、それをヴァレー人に見せながらスイスの話などを色々聞いた。しばらくして、レーの友人でいまはサンフランシスコに暮らしているという女性が我々に合流し、襲撃事件や集会や現代フランスのことなどを説明し、語り合った。

 ビールを二杯、レーに奢ってもらった。美味かった。二十過ぎとなり、そろそろサンタクルーズへ向けて帰りださねばならない。三人で地下鉄のモンゴメリー駅まで行き、女性は反対の方向へ帰るようでそこでお別れした。地下鉄に乗り、ミルブラエ駅で降りる。カルトレインへ乗り換えてサンノゼまで出なければならないが、次の便まで四十分ほど間があったので、これまたレーの提案で駅の周りを歩き回ることにする。ミルブラエを歩くのは初めてであった。ミルブラエには中華料理屋やタイ料理屋、ヴェトナム料理屋やマッサージ店が立ち並びアジア系の人々が沢山暮らす街のようだった。レーが通行人に煙草をせびり、首尾よく煙草を一本もらうも、ライターがないというので、セブンイレブンに入った。レーはそこでライターとサンドイッチを買った。

 カルトレインに乗る。サンノゼまでの一時間あまりの間、ひたすらヨーロッパについて話した。サンノゼのディリドン駅に着いた。バスに乗り換えてサンタクルーズへ帰った。ついに帰宅したの零時半ごろだっただろうか。散文的でありながらも確実に現在の世界のあり方に触れた一日だった。